『院中御湯殿上日記1』(八木書店出版部) - 著者: - 遠藤 珠紀による自著解説

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院中御湯殿上日記1
『院中御湯殿上日記1』(八木書店出版部)

豊臣秀吉が天下人であった時代、正親町院の院御所の女房たちによって書き継がれた業務日記『院中御湯殿上日記』。院の動静を主に、後陽成天皇や秀吉との関係、さまざまな院中・禁中での行事、和歌・香・能などの文化について記された内容からは、当時の様子を知ることができる。

『院中御湯殿上日記』の登場

天正14年(1586)11月、正親町天皇(?―1593)は孫の和仁親王(後陽成天皇)に譲位し、上皇になりました。天皇の生前譲位は、後花園天皇以来、実に123年ぶりのことです。
今回第1冊が刊行された『院中御湯殿上日記』はこの正親町院の院御所の女房たちによる業務日記です。天正15年(1587)から天正19年(1591)までの5年間、一年を通しての日記が残っています。正親町院は文禄2年(1593)正月に崩御するため、本記は最初の数か月と晩年の1年余りを除き、上皇時代の大部分を網羅しているといえます。早く斎木一馬氏によって存在が紹介されましたが、その後十分には利用されてきませんでした。
史料纂集では、全3冊でこの正親町院御所の『院中御湯殿上日記』を翻刻する予定です。第1冊目には天正15年正月記~天正16年5月記を収めました。

女房たちによる業務日記というと、天皇に仕える禁中女房による『御湯殿上日記』が知られています。『御湯殿上日記』は15世紀半ばから江戸時代を通して継続して記されていますが、15世紀半ば以来正親町院まで上皇は存在していませんでした。
そのため本記は、院中(院御所)の『御湯殿上日記』としては、初のものになります。本記中、特に天正15年記では「あなたでのごとく(在位中禁裏にいた時のように)」といった表現が折々に見えます。久々に置かれた「院」における行事や作法の在り方を模索していた当時の空気が伝わってきます。

また中世の『御湯殿上日記』の多くが江戸時代の写本であるのに対し、本記は同時代に書かれた原本と推測されます。執筆過程での書き直しや挿入、補書などが見え、その執筆の在り方を探ることが可能です。これらの点からも貴重な史料でしょう。伝来過程は不明ですが、大谷勝真氏の手を経て現在、東京大学史料編纂所が所蔵しています。

内容は、院の動静を中心に、後陽成天皇や当時の天下人豊臣秀吉との関係、さまざまな院中・禁中での行事、人事(叙位・任官)等に関する記事、また和歌・香・能などの文化的記事も見られます。院は芸能では特に香に心を寄せていたようです。
同時期に後陽成天皇の禁中の『御湯殿上日記』も残されており、比較して読むことにより、情報を補完することができます。特にこの時期の禁中の『御湯殿上日記』は比較的簡略な記載で、欠失部分もあります。例えば本冊所収の天正15年では、禁中の『御湯殿上日記』は9月7日条以降が失われています。これ以降の天皇周辺の動向は本記によってはじめて明らかになります。


豊臣秀吉の聚楽完成

以下、この天正15年9月~12月の記事からいくつかご紹介します。
この頃、秀吉の京都の屋敷である聚楽が完成しました。8月25日、上臈局をはじめとする院御所の女房たちは、北野社参りの帰りに聚楽を見物し、京都所司代前田玄以から手厚いもてなしをうけています。

9月13日、秀吉室北政所・秀吉母大政所が大坂城から聚楽に引っ越ししました。翌日には北政所から院に銀50枚など膨大な品が献上され、院に仕える人々にも配分されています。さらに禁中と院御所の女房たちが聚楽の北政所に礼に赴くことになりました。当初は両御所の女房たちが同日に、ということでしたが、女房たちの間での序列をめぐる争いが起きます。
調整は難航し、院の女房と禁中の女房は別々の日に赴く事になりました。院御所の女房5人は9月22日に聚楽を訪れます。秀吉には別途公家を通じて祝が述べられました。10月11日、大政所からも礼物が献上されました。これらは本冊でのみ知られる内容です。

今年の大河ドラマの主人公豊臣秀長の姿も散見します。例えば9月14日・10月3日には酒肴などの献上の記事、加藤光泰が秀長家臣としての諸大夫成の礼をしている記事があります。
この時期、武家の公家成・諸大夫成等がしばしば行われています。禁中の『御湯殿上日記』は端的に人数などを記していますが、『院中御湯殿上日記』ではより詳しく名前や所属(秀長諸大夫など)も書き留められています。


三条西公国の任内大臣をめぐって

内大臣をめぐるやりとりも注目されます。これ以前の内大臣は豊臣秀吉でしたが、秀吉は天正14年末に太政大臣に昇任し、以来空席になっていました。『公卿補任』では11月9日に三条西公国が就任し、すぐ後の11月19日に織田信長の息子信雄が任じられたと記しています。
ところで『院中御湯殿上日記』を見ますと、天正15年11月18日、豊臣伝奏勧修寺晴豊が院に信雄(「さんすけ」)に内大臣宣下があることを披露し、翌19日に任内大臣の陣儀が行われています。信雄は陣儀ののちに院御所にも参り院に昇任の挨拶をしました。

翌月12月8日、公国がにわかに危篤になりました。三条西家はこの時期、代々大臣に昇っている家柄です。そのため、いまだ権大納言の公国は内大臣になりたいと訴えてきました。天皇は内大臣には信雄がいるので、儀同三司ではどうだろうと院に相談をします。これに対し院は儀同三司より内大臣にと考え、天皇の母の准后勧修寺晴子にも内々に諮っています(※137頁11行目「きとう」に(祈禱)との傍注を付していますが、(儀同)の誤りです。この場を借りて訂正させていただきます)。
また医師を公国のもとに遣わしました。翌日、院はさらに公国の体調が悪化したと聞き、急ぎ内大臣の宣下をするよう求めます。相談された右大臣菊亭晴季は、内大臣には織田信雄が在任中で難しい、亡くなったのちの贈官ではどうかと答えています。それでも院は「半時限り」でもと主張し、ついに大外記に命じて宣下を行わせました。同日、公国は薨じ、ただちに信雄が復任したのでしょう。
この12月9日の一時的な任内大臣の事情が認識されず、「十二」と「十一」の紛れやすさもあり、『公卿補任』『諸家伝』などでは信雄就任以前の「11月9日」任内大臣とされたと推測されます。こうした就任に至る事情が本記により判明しました。

なお秀吉や信雄がこの経緯を把握していたかはわかりません。翌年2月11日、信雄は内大臣就任の御礼として黄金一枚を献上しました。
このように本記には様々に興味深い記事が見られます。ぜひお手に取っていただければ幸いです。次冊では、天正16年閏5月~天正17年を紹介する予定です。

[書き手]
遠藤 珠紀(えんどう たまき)
東京大学大学院人文社会系研究科博士課程を経て、現在、東京大学史料編纂所准教授。
[主な著作]
『中世朝廷の官司制度』(吉川弘文館、2011年)
『北朝天皇研究の最前線』(日本史史料研究会監修 遠藤珠紀・水野智之編、山川出版社、2023年)
『史料纂集 勘仲記』3~8(共同校訂、八木書店、2013~2025年)
『史料纂集 兼見卿記』新訂増補1~7(共同校訂、八木書店、2014~2019年)
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