『批判的実在論入門: 複雑な世界を説明するためのクリティカル・リアリズムの考え方』(ナカニシヤ出版) - 著者: - 斎藤 環による書評

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 複雑な世界を説明するためのクリティカル・リアリズムの考え方
『批判的実在論入門: 複雑な世界を説明するためのクリティカル・リアリズムの考え方』(ナカニシヤ出版)

生物、心理、社会…結びつけ見渡すメタ理論

誰もいない森で木が倒れる音は存在するか。知覚から独立した物自体は認識できない、とするバークリ的な枠組みでは「音はしない」と考える。こうした考え方は「相関主義」と呼ばれるが、この立場への批判として、特に2000年代以降、メイヤスーの思弁的実在論、ガブリエルらの新実在論など、「実在論的転回」と呼ばれる潮流が広がった。共通するのは、心から独立した実在をあらためて主題にしている点である。

こうした転回に先駆けて(思想的系譜は別だが)ロイ・バスカーが1970年代に提唱した批判的実在論(Critical Realism 略称CR)が注目されている。CRは複数の理論や方法論を折衷主義によらず架橋する実用的な「メタ理論」として、看護学や組織研究など複数の分野で成果を上げているという。本書はバスカーらの著作の翻訳本を別とすれば、日本で初めて公刊された本格的なCRの入門書である。

普遍的真理よりも修正に開かれた実用性に関心のある評者にとって、CRはきわめて魅力的な理論である。とりわけ驚かされるのは、CRが「実在する」とみなすのが、出来事の存在よりも「メカニズム」であるという点である。限られた紙幅でCRの全体像を述べることは到底不可能なので、以下はこの「メカニズム」を中心とした、評者なりのCR理解を簡単に述べてみたい。

CRの主張を端的に言えば「世界には、観察される出来事とは別に、それを生み出すメカニズムが実在する」という命題となる。バスカーは「科学という活動や認識実践が可能であるためには、世界がどのようなものであるべきか」と問うた(超越論的論証)。科学実験は人工的な閉鎖系でのみ観察可能な規則性を抽出する。しかしこの規則性は、ノイズだらけの開放系(自然や社会)では成立しない。規則性が無効となっても出来事が起きるように働くものがメカニズムである。

メカニズムが実在するとして、世界には三つの領域(ドメイン)が存在する。すなわち実在的ドメイン(メカニズムそのもの)、メカニズムから生起するアクチュアルドメイン(認識困難な現実的なもの)、経験的ドメイン(認識された事象)である。現実世界では複数のメカニズムが同時に作動し打ち消し合いもする。それゆえ法則は必然性ではなく傾向性として現れる。ここでメカニズムは、事物の構造に根ざした因果的な力の働きである。世界には複数の層(生物、心理、社会など)があり、メカニズムはその各層ごとに存在する。

バスカーは、メカニズムの実在を認識する上で二つの次元を設けた。それが「自存的次元」(対象は認識から独立して存在する)と「意存的次元」(対象の知識は主観と認識から作られる)である。以上よりCRの「聖三位一体」が導かれる。すなわち「存在論的実在論」(メカニズムは知識から独立して実在する)、「認識論的相対主義」(メカニズムについての知識は歴史的、社会的に作られ修正されうる)、「判断論的合理主義」(どの理論がメカニズムをうまく説明するかは合理的に比較できる)だ。ここでメカニズムの存在を知る方法が、現象からその原因となる構造を推論するリトロダクションである。

評者の専門である精神医学では、これまで生物学、心理学、社会学などの手法がばらばらに用いられてきた。ここにCRを応用するとどうなるか。統合失調症の患者が幻聴を聞いている場合、幻聴の(医師への)訴えは経験的ドメイン、患者が実際に声を聞いている状況はアクチュアルドメイン、幻聴を可能にしている生物学的(ドーパミン仮説)・心理学的(外傷体験)・社会学的(社会的孤立など)な構造(≒メカニズム)は実在的ドメインに相当する。

CRは、「診断」概念に依拠する精神医学的実証主義を批判する。実証主義が、「統合失調症」という人工的な診断カテゴリーを実体化する「存在論的誤謬(ごびゅう)」と、症状の測定を存在そのものととり違える「認識論的誤謬」をおかしているためだ。しかし診断を全否定するわけではない。「統合失調症」という診断カテゴリーを仮説的な道具として扱い、それが実在するどの構造やメカニズムにどの程度対応しているのかをみきわめる。これがCRの立場である。

ここで改めて、生物、心理、社会という三つの層を想定してみよう。幻聴の発生については生物学、心理学がそれぞれの構造やメカニズムを提供できる。「薬で幻聴が改善する」という現象には生物学が対応する。一方で「対話で幻聴が改善する」という現象については、心理学と社会学にまたがるメカニズムが想定できる。患者の孤立と困窮状況については社会学に分があるだろう。このようにCRは、それぞれの層を他の層に還元せず、単なる折衷主義や多元主義に陥らずに、複数の層を架橋できるのである。

CRは必ずしもわかりやすい理論とは言えない。しかし精緻なメタ理論として、多くの専門領域で理論間の比較を可能にするだろう。CRを巡る議論の端緒として、本書が広く読まれることを期待したい。
【初出メディア】
毎日新聞 2026年10月10日
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