缶詰の殺し屋が、シワ取り注射の原料になるまで
缶詰の殺し屋が、シワ取り注射の原料になるまで / Credit: CDC, PHIL #2107 / Public Domain via Wikimedia Commons.ふくらんだ缶詰は開けるな、と聞いたことがあるでしょうか。
空気の入らない缶や瓶の中は、ボツリヌス菌にとって居心地のいい場所です。
この菌が作る毒(ボツリヌス毒素)は、神経から筋肉への合図を断ち切ってしまいます。
重いボツリヌス中毒で命を落とすのは、最後に呼吸を担う筋肉まで止まるからです。
1919年から翌年にかけて、カリフォルニア産の瓶詰オリーブによる集団中毒がアメリカ各地を襲いました。
デトロイトの実業家が開いた晩餐会では、主催者の子ども2人を含む5人が亡くなっています。
急成長していた缶詰産業にとっては存続に関わる事件で、各地の研究者が原因究明に動きました。
その一人がカリフォルニア大学の細菌学者イヴァン・ホールで、各地のボツリヌス菌を集め、大きなコレクションを築きます。
集まった菌を調べた研究者たちは、その中に毒をとびぬけて多く作る一株を見つけました。
以後「ホール株」と呼ばれる菌です。
この株は1942年、米軍の研究所へ渡ります。
生物兵器として使えるかを探るためでしたが、同時に兵士を守るワクチンを作るためでもありました。
軍はこの株から、ノルマンディー上陸作戦に備えて30万人分のワクチンを用意しています。
1970年代初頭に生物兵器計画が終わると、株はウィスコンシン大学の研究所へ移りました。
そこでは、毒を取り出して結晶にする技術が磨かれます。
打つのは菌そのものではなく、取り出した毒をごく少量だけ使った薬で、筋肉の動きを抑える力がけいれんを和らげます。
この使い道はやがて、斜視やまぶたのけいれんの治療薬として承認されました。
ですが治療を重ねるなかで、思わぬ副作用がみつかります。
目のまわりに打った患者から「しわが消えた」という声があがったのです。
これが、いまの美容用ボトックスにつながる始まりでした。
いま医療や美容で使われるボツリヌス毒素は、その多くがこの系統の子孫から作られているとみられています。
ところが、この株には昔から妙なところがありました。
ふつうのボツリヌス菌は、条件が悪くなると硬い殻にこもって眠り、何年でも待つことができます。
土の中でも水の底でも生き延びられるのは、この殻があるからです。
しかし研究室で飼われてきたこの株は、その殻を作れません。
1956年には、すでにそう報告されていました。
けれども、いつどうやってそうなったのかを、誰も確かめていませんでした。
生き物が人間の環境に合わせて変わっていくことを、家畜化と呼びます。
オオカミはイヌになり、野生の草はコムギになりました。
動物や植物の家畜化では、広い集団から性質を集め、交配で組み合わせることができます。
ところが、ひとつの系統を飼い継ぐ実験室の菌には、それができません。
1個の細胞から増やしたクローンの集まりで、外から遺伝子をもらう機会もないからです。
外から何も入ってこない菌は、どこから変わるためのタネを手に入れたのでしょうか。







English (US) ·
Japanese (JP) ·