水の中で「留まる」ことの難しさ
水の中で「留まる」ことの難しさ / Credit:Canvaプールで大きく息を吸うと、体は浮きます。吐くと沈みます。たったそれだけで、人間の体は水中で上下してしまいます。
裏を返せば、水の中でその場に留まるのは、とても難しいということです。ダイビングを習った方なら、最初の一時間がひたすら「浮きすぎず沈みすぎない」練習だったことを覚えているでしょう。
魚はこれを、体内の浮き袋で解決しました。袋の中の気体を増やせば浮き、減らせば沈む。ヒレを動かさなくても、好きな深さに留まっていられます。
彼らの条件は、魚よりずっと厳しいものでした。
初期の軟体動物は、殻を背負ったまま海底で暮らしていたと考えられています。
そして炭酸カルシウムでできた殻は重く、背負っていれば沈んだままになります。
そのため初期の軟体動物たちは、這うか、埋まるか、岩にくっつくかがせいぜいで、上下に世界を広げる選択肢はなかったのです。
ところが、この重荷を逆手に取った一族が現れました。殻を捨てるのではなく、殻そのものを浮きに作り替えたのです。
いまも生きているオウムガイが、そのヒントになります。
Credit:Canvaオウムガイの殻を縦にまっすぐ割ってみると、内部がいくつもの部屋にきれいに仕切られているのがわかります。
本体が住んでいるのは、いちばん外側の一室だけ。残りはガスと少しの液体が入っているだけの空き部屋で、それがそのまま浮きになっています。
ただし、浮きを作るだけでは足りませんでした。
空き部屋が密閉されたままでは、浮き具合は固定されてしまいます。それでは深さを選べません。潜れば水圧に押され、浮上すれば行き過ぎる。
そこで彼らが進化させたのが、空き部屋を串刺しにするように走る一本の細い管でした。部屋どうしをつなぐ細い管、連室細管です。
この管を通して部屋の水を抜けば軽くなり、水を入れれば重くなります。
潜水艦がタンクの水を出し入れして浮き沈みするのと、発想は同じです。
こうして頭足類は海底を離れました。
あとは水を勢いよく噴射して進めばいい。彼らは海の中層を動き回りながら狩りをする、最初の捕食者になります。
それまでの海の生態系は、平たい皿のようなものでした。生きものは底にへばりつき、競争も逃走も平面の上で起きていいましたが、そこに上下という次元が加わったのです。海が、平面から立体に変わった瞬間でした。
世界中の地層からアンモナイトの化石が出てくることが、その後の繁栄を物語っています。
面白いのは、この大発明のたどった末路です。
コラム:貝が浮いて、イカになるまで
約5億4000万年前 ── カンブリア紀が始まり、硬い殻を持つ生きものが海に一斉に現れます。軟体動物もそのなかにいました。小さな笠のような殻を背負い、海底を這っていた時代。沈む貝の時代です。
ですが約4億9000万年前 になると仕切りを管が貫く注排水システムが完成し、貝が浮いて泳ぐ時代が始まります。
さらに約4億年前には巻いた殻を持つアンモナイトの仲間が登場します。以後3億年以上にわたって、世界中の海を埋め尽くしました。
そして約3億3000万年前になるとイカやタコの祖先が現れ、背負っていた殻を体の中に取り込みはじめます。
このように私たちが知るイカやタコなどの頭足類が現れるまでには、貝が浮くというステップが必要だったのです。
いまも本来の形で使い続けているのは、オウムガイだけになりました。仕切られた空き部屋と、それを貫く管。5億年前の設計図そのままの装置を、彼らは深海で今日も動かしています。
コウイカは、形を変えて残しました。スーパーで買ったコウイカの体から出てくる、白くて軽い舟のような硬い板。捨てられがちなあれの内部は、驚くほど細かい層に仕切られていて、そこの水とガスを入れ替えて浮力を調節しています。5億年前の発明が、まな板の上に載っているわけです。
一方、ダイオウイカのような深海性のイカの一部は、海水より軽い液体を体内にためるという化学的な方法に乗り換えました。反対にスルメイカのような遊泳型のイカは、浮きそのものを持ちません。体は海水より重く、泳ぎ続けることで沈まずにいます。体に残る透明で薄い軟甲は殻の名残ですが、空き部屋も管もなく、浮きとしては働きません。
そしてタコは、いちばん徹底していました。殻も、部屋も、管も、すべて捨てた。装置を持たないかわりに、体そのものを海水と同じ重さに作り変えてしまったのです。
装置を守った者、作り替えた者、乗り換えた者、丸ごと捨てた者。5億年前に生まれたひとつの発明は、子孫たちの手でまったく違う運命をたどりました。
ところが ── その発端となった発明がいつ生まれたのか、誰も知りませんでした。






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