
「鉄の暴風」と呼ばれた沖縄戦から80年あまり。そんな沖縄が、再び「大暴風」に見舞われる事態となっています。今回のメルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』ではジャーナリストの高野孟さんが、先日の衆院選で「オール沖縄」が自民党に全選挙区を奪われた原因を解説。その上で、今後の沖縄政界の行く末を考察しています。
※本記事のタイトルはMAG2NEWS編集部によるものです/メルマガ原題:安住淳の一言で「オール沖縄」が死に玉城デニー知事3選にも暗雲が垂れ込めた/「中道」は権力が野党を絡め取るための罠であることの好事例
プロフィール:高野孟(たかの・はじめ)
そもそも全くの誤りである安住淳の「民主党政権の総括」
安住が「私どもも政権にいた時には辺野古はやらざるを得ないということでやってきた」と言うのは、鳩山政権が普天間基地の「最低でも県外〔ということは出来れば国外〕への移設」を目論んで模索した挙句、米日官僚体制の壁に阻まれて、結局、「辺野古建設推進」以外の選択肢を切り開くことが出来なかったことへの、全く誤った総括である。
2009年9月に発足した鳩山由紀夫政権は「辺野古はやらざるを得ない」という方針など掲げてはいなかった。それどころか、鳩山の発言という形で「最低でも県外」の方針を堂々と掲げていた。
確かに、その年8月の総選挙に向け発表されたマニフェストでは普天間問題そのものに触れておらず、それは岡田克也幹事長、直嶋正行政調会長らの“慎重論”(という名の臆病風)に基づく回避行動で、その協議の場で鳩山は「ずいぶん弱腰になったな」と思いつつも了承した。が、その約1カ月後の7月19日に沖縄3区の玉城デニー候補の応援のため沖縄市に入った鳩山は、現地の熱気に押し上げられて「最低でも県外」と明言したのだった。
それは、岡田や直嶋らからすればマニフェストに違反する行為だが、逆に鳩山側から見ればマニフェストに「辺野古推進」と書いてある訳ではない。それどころか、1996年の旧民主党はその前年9月の沖縄米兵3人による12歳の小学生少女の強姦事件に対する激しい怒りの中で結党理念・政策の議論を始め、当時大田昌秀県政下、吉本政矩副知事が提唱していた「基地返還アクションプログラム」に学びながら「常時駐留なき安保」を基本政策の1つに掲げたのであり、鳩山ら創党メンバーの沖縄基地問題への思いは深い。
当然にも、何度か改定された「沖縄ビジョン」には「辺野古移設反対」が書き込まれていて、この時の直近の2008年版でも「普天間基地の辺野古移設は……こう着状態にある。米軍再編を契機として、普天間基地の移転についても、県外移転の道を引き続き模索し……戦略環境の変化を踏まえて、国外移転を目指す」と明記されていた。
従って、せっかく308議席を得て政権交代を果たしながらその本来の主張を引っ込めたことの方がおかしいのであって、安住の「私どもも政権にいた時には辺野古はやらざるを得ないということでやってきた」というのは逆立ちした言葉である。そこには、辺野古反対を引っ込めたり、そのために「中道」を名乗ったりすれば、米日権力は野党が政権に就くのを許してくれるだろうと期待する奴隷根性が滲み出ている。
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一世を風靡した「オール沖縄」という闘争スタイルの萌芽
さて、沖縄の政治を一世風靡した「オール沖縄」という闘争スタイルの萌芽は、上記95年の少女暴行事件に怒り狂った県民が立ち上がって開いた「10・21米軍人による暴行事件を糾弾し、地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」にある。
宜野湾市海浜公園の会場は8万5,000人の参加者で埋まり、宮古、八重山でも3,000人規模の集会が開かれて、これは復帰後では最大規模の集会となったが、何よりの特徴は、県議会の保守・革新を問わず全会派が一致して呼びかけ、地域のさまざまな団体や組織もこぞって賛同し結集したことにあった。
これを組織したのは故玉城義和県議で、彼が大会実行委員会の事務局長に就いた。その後、米軍の暴虐に対する県民総意の抗議のために「実行委員会方式」の県民大会は何度か開かれるが、それが決定的なピークを迎えたのは2012年9月の「オスプレイ配備に反対する沖縄県民大会」10万人集会だった。ところがその1カ月後、米日政府は県民を嘲るかのようにオスプレイの普天間配備を強行した。
これに対する玉城の抜群の切り返しは、沖縄県議会議長、沖縄県市長会会長、沖縄県商工連合会会長、連合労組沖縄会長、沖縄県婦人団体連合会会長の5人を共同代表としたその下で、県議会の全会派の長が署名捺印し、県内の全41市町村の首長と議会議長は何と(私はこれにすっかり感動してしまったのだが)公印を押して(政治家個人としてではない、公の職を賭した覚悟の証として)連名の「建白書」を発し、これを安倍晋三首相に直接突きつけるというもので、13年1月13日、東京・日比谷野外音楽堂で集会を開いたそれらの人々は、その後に銀座通りをパレードする一方、代表が首相官邸を訪れて安倍にそれを手交した。
この時、市長会の会長は那覇市長だった翁長雄志で、彼はまさに沖縄のミスター自民党とも言うべき保守派のスターであったにもかかわらず、オスプレイには強い危機感を抱き、「オスプレイの配備を直ちに撤回し、普天間基地を閉鎖・撤去し県内移設を断念せよ」との建白書運動の先頭に立った。
ところが、パレードの終点の銀座1丁目の歩道で彼らを待っていたのは右翼ヘイト集団の数百人で、「沖縄人は中国へ帰れ!」と言った汚らしい罵声を浴びせた。実行委員会の翁長代表と並んでデモの先頭を歩んでいた玉城事務局長は、その時、翁長が拳を握り締めて振るわせるのに気がついて横を見ると、翁長の頬に涙が伝っていた。「祖国復帰」を夢見て長年闘って、それで迎えてくれた「祖国」がこれなのか……という涙だったと思うと、玉城は後に私に語った。
その瞬間、玉城の頭に浮かんだのは、「あっ、この人をオール沖縄で14年の県知事選に担ごう」という閃きだった。しかしここでも玉城は巧みで、私とのある夜の私的会話でこう漏らした。
「翁長を知事に立てる」
「ヒエーッ、ウルトラCじゃないですか」
「いいか、絶対に他人に漏らすな。漏れたら話が壊れる。今は共産党に話をして、志位まで話が行って『我が党としてはそれで結構です』と返事が来た。が、先に共産党に話をしたことがバレると物事はうまく行かない」
「これが成ったら、まさに自民から共産までの『沖縄ぐるみ』ですね」
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本土政治とは無関係に一挙体制を作り直すしかない沖縄
その夜の玉城との対話は私には胸に沁みるものがあった。
沖縄には1950年代に、「プライス勧告」に基づく米軍の一方的な土地取り上げに対する県民上げての抵抗運動としての「島ぐるみ闘争」という言わば歴史遺産があった。他方、本土の労働運動には、総評初期の高野實事務局長時代の争議スタイルとして「家族ぐるみ・地域ぐるみ闘争」の実践があった。
玉城は私より4~5つ下の団塊世代で、そのどちらをも直接体験している訳ではなかっただろうが、島ぐるみ闘争は間近に見聞する出来事であったろうし、また彼が1974年に沖縄自治労から総評に派遣されて「全国オルグ」から「国民運動局長」を務めるなどして88年の総評解散まで付き合ったなかで、高野實流の「家族ぐるみ・地域ぐるみ闘争」の考え方をも深く学び実践して熟知していた。
沖縄流の「島ぐるみ」と総評流の「家族ぐるみ・地域ぐるみ」の掛け合わせとしての「オール沖縄」という玉城の「括り方」は凄くて、この観念力の強さは当分の間、沖縄政治を貫いていくのかと思われたが、そうはいかず、玉城が16年に急逝して以後はまとめ役が不在のままゴタゴタ続いてきた。そのため安住ごときの一言でアレよという間に崩壊したのである。
さて、これからどうしたらいいのか、私にも名案はない。しかし、いずれにせよ沖縄では、立憲、公明の地方組織は辺野古推進の「中道」には合流しないだろう。社民、共産、社会大衆の各党は最初から「中道」とは無関係なので、それらが結集して本土政治とは無関係に「オール沖縄」を作り直し、秋の県知事選に立ち向かうことになるのではないか。
(メルマガ『高野孟のTHE JOURNAL』2026年1月26日号より一部抜粋・文中敬称略。ご興味をお持ちの方はご登録の上お楽しみください。初月無料です)
image by: X(@安住淳)
MAG2 NEWS

7 ヶ月前
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